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田蓑神社は、貞観11(西暦869)年より大阪市西淀川区佃に鎮座する氏神様です。

TEL. 06-6471-5416

〒555-0001 大阪府大阪市西淀川区佃1−18−14

神社案内SHRINE INFORMATION

御祭神 住吉の四柱

底筒之男命(そこづつのおのみこと)
中筒之男命(なかづつのおのみこと)
表筒之男命(うわづつのおのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)

 住吉の大神は、禊祓で出現されましたので、神道でもっとも大事な祓いを司る神と信仰されています。
そして、古くから海上の無事を祈る航海安全の神として、万葉集に歌が残っています。また、和歌の神さまとして、数々の和歌が詠まれています。
 さらに、住吉の大神が草を敷かずに苗代をつくる方法を教えたという伝説が残っており、五穀豊穣、農耕の神、転じて産業、商業、貿易の神といわれています。

拝殿

由緒

貞観十一年(西暦869年)九月十五日鎮座、田蓑嶋神社という。
寛保元年(1741年)九月に住吉神社と改名、
明治元年(1868年)に田蓑神社となる。

 「日本書記」や「古事記」でよく知られるお話しで、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きました。
 そこで受けた汚れを清めるために、「筑紫の日向の橘の小門の憶原」というところで禊祓いしたとき、住吉の神である底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表筒男命(うはつつのをのみこと)の「住吉三神」が生まれました。

 時代は下って、十四代仲哀天皇の妻である神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅に出兵する際に、住吉の大神を守り神と奉り、遂に成し遂げ国の安定を築かれました。その帰途、この地に立ち寄られた折、海士が白魚を献上されてより、その海士を奉ったとされております。

 後の世、当地開拓の時その海士が出現し、神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよと申され、貞観十一年(869年)に創建され、住吉三神と神功皇后の「住吉四神」をお奉りいたしました。

 社名は時代と共に、田蓑嶋神社(田蓑嶋姫神社との説も)、住吉神社(住吉大神宮、住吉明神、住吉大明神とも)と変遷し、明治元年(1868年)に田蓑神社と改められました。


徳川家康と田蓑神社

 天正年間、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟(川西市多田神社)に参詣の折、田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めました。
その縁により、漁民等には「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただき、漁業の一方、田も作れと命じられ、その竟をもって田蓑嶋を佃と改めました。
後の寛永八年(1631年)田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られました。

 人助けにより、村の繁栄がもたらされたのです。私たち佃の氏子は、その心を大切に、神恩に感謝するとともに、世のため人のために奉仕し、福祉の増進を心掛けたいものです。


佃漁民ゆかりの地

 天正十八年(1590年)八月一日家康公が関東へ下降の際、田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次を含む三十四人の村人が江戸へ下りました。
後に幕府より干潟を賜り、故郷の名をとり佃島と定め、田蓑神社の御分神霊を奉戴しました。これが、佃煮発祥の地として有名な、東京の佃島と同地の住吉神社の起源です。
 当地は、大阪市より顕彰遺跡「佃漁民ゆかりの地」と指定され、神社にその碑が建立されました。また、その碑が、未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれました。


バナースペース

田蓑神社

〒555-0001
大阪府大阪市西淀川区佃1−18−14

TEL 06-6471-5416
FAX 06-6471-5059